沖ヨガ
サイト管理人は約30年昔、沖ヨガに入門。
翌年、故沖正弘師より個人修正体操法の指導を愛く。
写真は、沖ヨガ修道場(三島市 当時)におけるその時の様子。
個人指導で示された32種類の修正体操法を、指示通り60日間継続。
これが、筆者の身体の歪を修正し立て直すための、出発点であった。
それから、師がイタリアにて入定された1985年までの約6年間、まるで引きつけられるように三島のヨガ修道場の門をたたき心身の立てなおしを図った。
この間、沖ヨガ入門に当たって最初に指導を受けた岡田真樹先生のご助言があり、地元豊中市において小さなヨガ教室を開かせていただいた。真樹先生から受けた懇切丁寧なご指導が無ければ、はじめることもつづけることもできなっかたはずである。
教室での指導の様子が、広報誌とよなかに紹介されたこともあった。教室は公民館、地区会館などでおこない、1990年6月まで継続した。本業のほうが忙しく、実際そちらに手が離せなくなっていた。
インド訪問は、ヨガ教室をさせていただいていた1988年12月のことで、ジャイナ教研修所に滞在した。
信徒は厳格な戒律を守って生活している。
それは私にはまねができないが、尊い生活であることは理解できた。これは聖の世界。
その後は、俗の世界で、これらの体験を応用すべく実務の仕事に励んできた。
現在の私の環境や状況はすべてその結果といえる。
タチア先生の次のお言葉を肝に銘じてすすみたいと思う。
「学んで、これを実践しないならばそれは不誠実な生き方である。」
合掌。

翌年、故沖正弘師より個人修正体操法の指導を愛く。
写真は、沖ヨガ修道場(三島市 当時)におけるその時の様子。
個人指導で示された32種類の修正体操法を、指示通り60日間継続。
これが、筆者の身体の歪を修正し立て直すための、出発点であった。
それから、師がイタリアにて入定された1985年までの約6年間、まるで引きつけられるように三島のヨガ修道場の門をたたき心身の立てなおしを図った。
この間、沖ヨガ入門に当たって最初に指導を受けた岡田真樹先生のご助言があり、地元豊中市において小さなヨガ教室を開かせていただいた。真樹先生から受けた懇切丁寧なご指導が無ければ、はじめることもつづけることもできなっかたはずである。
教室での指導の様子が、広報誌とよなかに紹介されたこともあった。教室は公民館、地区会館などでおこない、1990年6月まで継続した。本業のほうが忙しく、実際そちらに手が離せなくなっていた。
インド訪問は、ヨガ教室をさせていただいていた1988年12月のことで、ジャイナ教研修所に滞在した。
信徒は厳格な戒律を守って生活している。
それは私にはまねができないが、尊い生活であることは理解できた。これは聖の世界。
その後は、俗の世界で、これらの体験を応用すべく実務の仕事に励んできた。
現在の私の環境や状況はすべてその結果といえる。
タチア先生の次のお言葉を肝に銘じてすすみたいと思う。
「学んで、これを実践しないならばそれは不誠実な生き方である。」
合掌。

インド
20年昔、管理人は、インドへジャイナ教研修と仏蹟訪問の旅に出た。
そのときの訪問記が、雑誌「求道実行」1989年6月号に、「垣間見たインド」と題して掲載された。
以下にその一部をご紹介する。
デリーを早朝出発。途中ジャイプールに立ち寄って、12時間余り。ようやく到着した、ラドヌーンの町は、満天の星のもとにひっそりとたたずんでいた。
翌朝午前4時半、寒さのためか、目覚める。この町は砂漠に囲まれているため、朝晩は冷え込むのだ。午前5時半朝の冥想と祈りの集いが始まる。堂内は細い明かりが灯っているだけだ。正面にはジャイナ教のシンボルマークが浮かび上がっている。夜明けまでまだ間がありそうだ。ひとときの朝の静寂.尼僧のマントラの響きが、静かに、奏でられる。清澄な響きだ。私は全身を耳にして聴き入る。この調べの中には、彼女たちの信仰生活の一切、すべての想いがこめられているのを実感する。こうして、ジャイナ教研修センターでの、研修生活は始められた。
ここでの生活は予めプログラムが用意されていて、私たちは定められた時刻に定められた場所へ集合することになっていた。プログラムは綿密に組み立てられているので、てきぱきと移動しなければならない。講義、冥想実習、導師アチャリアとの接見質疑応答その他ラドヌーン市内の見学で構成されている。
(中略)
講義の合間をぬうようにして、食事が1日3回それにお茶の時間まで用意されていた。別棟の食堂で私達は壁を背にして横1列になり石床に敷いた布の上にすわる。 ステンレスの食器は床に直に置く。向かい合った人との距離は約1.8m。その間を若い尼僧が、次々に食物をサービスしてくれる。
彼女たちは腰を折るようにして1人1人の顔を覗き込みながら、食器に料理が空になっていれば、さらに何度も勧めてくれる。私が最初に覚えたヒンデイ語は、「もう結構です。」という意味の「バス」という言葉であった。
私達はスタッフの方から、食事中も修行の一部であるから静かにいただくようにとの指導を受けていたが、ついつい隣人とおしゃべりに興じ、とうとう最後までこの癖は直せずじまいであった。
(中略)
夜行列車で到着したベナレスの町は、朝霧に包まれていた。ジャイプルやデリーの町とうってかわって、街並みの緑が瑞瑞しい。ここは、ガンジス河が町の中心を流れ、2500年の歴史を誇る古都だ。聖なるガンガに詣でるため、インド各地から、ヒンズー教徒が絶え間なく訪れる。
私たちの見学は、サルナートからだ。約10キロメートルの道のり。ここは、釈迦が初めてダルマを説かれた地として名高い。私達はまず、ムラカンダクテイ寺院を見学。堂内は、釈迦の誕生から入滅までの一生を示す美しい壁画で飾られている。見学後、近くの小さなみやげ物店で、一行は、数珠を買い求める。
ガイド役をして下さっている、タチヤ夫人の一声で、急に値段が半額近くになるのが面白い。
寺院を出ると、右に巨大な仏舎利等(ダーメクストーパ)がそびえたつ。その周囲は、仏教を保護したといわれるアショカ王時代の遺跡群である。なかでも目を引くのは、現代インド紙幣に印刷され、国章となっている石柱柱頭を飾るライオン像である。本物は、すぐ近くの博物館内に展示保存されている。
タチヤ博士ご夫妻は、終止私たちの先頭に立って、丁寧に案内説明して下さった。
翌朝訪れたガンガのガート(木浴場)は、まだ闇の中であった。私たちが小船に乗り込み、ガンガに漕ぎ出した頃ようやく徐々に明るくなってくる。日の出とともに沐浴の善男善女の数が増している。前方に立ち上る白煙が見える。ここでは24時間、煙の絶えることがないという。死者の遺灰はガンガに撒かれる。
ガンジス河に別れを告げた私達は、一路ブッダガヤへと向かった。
バスにゆられて6時間余り。ブッダガヤ到着は日の沈む頃となっていた。そこは、釈迦が、長年の苦行を経て悟りを開かれた地である。ホテル到着早々、私達はここで思いもかけず、タチヤ博士の講義を受けることになった。そのように手はずが整えられていたのである。題して「釈迦の悟りについて」。ちょうど良い(またとない)場所で、ちょうど良い(またとない)碩学から、ちょうど良い(またとない機会を授かったのである。遠い道のりを同行されたタチヤ博士とこれを企画されたツアーリーダーの龍村氏に深く感謝。
講義は英語でなされたが、通訳の方の力量に助けられ、釈迦が悟りを開かれるまでの歴史とその内容について、8ツの原則に分けて分かりやすく教授してくださった。思わず講義内容に引き込まれ、長旅のつかれも癒される思いであった。
一夜明けて、釈迦が苦行の末、食物を摂って冥想をさらに深めたというネーランジャー河のほとりを訪れ、 ついで、そこで大悟されたという菩提樹と大塔に詣でたたのであった。
(後略)

ナットマル タチア博士とサヴィタ タチア夫人と共に
そのときの訪問記が、雑誌「求道実行」1989年6月号に、「垣間見たインド」と題して掲載された。
以下にその一部をご紹介する。
デリーを早朝出発。途中ジャイプールに立ち寄って、12時間余り。ようやく到着した、ラドヌーンの町は、満天の星のもとにひっそりとたたずんでいた。
翌朝午前4時半、寒さのためか、目覚める。この町は砂漠に囲まれているため、朝晩は冷え込むのだ。午前5時半朝の冥想と祈りの集いが始まる。堂内は細い明かりが灯っているだけだ。正面にはジャイナ教のシンボルマークが浮かび上がっている。夜明けまでまだ間がありそうだ。ひとときの朝の静寂.尼僧のマントラの響きが、静かに、奏でられる。清澄な響きだ。私は全身を耳にして聴き入る。この調べの中には、彼女たちの信仰生活の一切、すべての想いがこめられているのを実感する。こうして、ジャイナ教研修センターでの、研修生活は始められた。
ここでの生活は予めプログラムが用意されていて、私たちは定められた時刻に定められた場所へ集合することになっていた。プログラムは綿密に組み立てられているので、てきぱきと移動しなければならない。講義、冥想実習、導師アチャリアとの接見質疑応答その他ラドヌーン市内の見学で構成されている。
(中略)
講義の合間をぬうようにして、食事が1日3回それにお茶の時間まで用意されていた。別棟の食堂で私達は壁を背にして横1列になり石床に敷いた布の上にすわる。 ステンレスの食器は床に直に置く。向かい合った人との距離は約1.8m。その間を若い尼僧が、次々に食物をサービスしてくれる。
彼女たちは腰を折るようにして1人1人の顔を覗き込みながら、食器に料理が空になっていれば、さらに何度も勧めてくれる。私が最初に覚えたヒンデイ語は、「もう結構です。」という意味の「バス」という言葉であった。
私達はスタッフの方から、食事中も修行の一部であるから静かにいただくようにとの指導を受けていたが、ついつい隣人とおしゃべりに興じ、とうとう最後までこの癖は直せずじまいであった。
(中略)
夜行列車で到着したベナレスの町は、朝霧に包まれていた。ジャイプルやデリーの町とうってかわって、街並みの緑が瑞瑞しい。ここは、ガンジス河が町の中心を流れ、2500年の歴史を誇る古都だ。聖なるガンガに詣でるため、インド各地から、ヒンズー教徒が絶え間なく訪れる。
私たちの見学は、サルナートからだ。約10キロメートルの道のり。ここは、釈迦が初めてダルマを説かれた地として名高い。私達はまず、ムラカンダクテイ寺院を見学。堂内は、釈迦の誕生から入滅までの一生を示す美しい壁画で飾られている。見学後、近くの小さなみやげ物店で、一行は、数珠を買い求める。
ガイド役をして下さっている、タチヤ夫人の一声で、急に値段が半額近くになるのが面白い。
寺院を出ると、右に巨大な仏舎利等(ダーメクストーパ)がそびえたつ。その周囲は、仏教を保護したといわれるアショカ王時代の遺跡群である。なかでも目を引くのは、現代インド紙幣に印刷され、国章となっている石柱柱頭を飾るライオン像である。本物は、すぐ近くの博物館内に展示保存されている。
タチヤ博士ご夫妻は、終止私たちの先頭に立って、丁寧に案内説明して下さった。
翌朝訪れたガンガのガート(木浴場)は、まだ闇の中であった。私たちが小船に乗り込み、ガンガに漕ぎ出した頃ようやく徐々に明るくなってくる。日の出とともに沐浴の善男善女の数が増している。前方に立ち上る白煙が見える。ここでは24時間、煙の絶えることがないという。死者の遺灰はガンガに撒かれる。
ガンジス河に別れを告げた私達は、一路ブッダガヤへと向かった。
バスにゆられて6時間余り。ブッダガヤ到着は日の沈む頃となっていた。そこは、釈迦が、長年の苦行を経て悟りを開かれた地である。ホテル到着早々、私達はここで思いもかけず、タチヤ博士の講義を受けることになった。そのように手はずが整えられていたのである。題して「釈迦の悟りについて」。ちょうど良い(またとない)場所で、ちょうど良い(またとない)碩学から、ちょうど良い(またとない機会を授かったのである。遠い道のりを同行されたタチヤ博士とこれを企画されたツアーリーダーの龍村氏に深く感謝。
講義は英語でなされたが、通訳の方の力量に助けられ、釈迦が悟りを開かれるまでの歴史とその内容について、8ツの原則に分けて分かりやすく教授してくださった。思わず講義内容に引き込まれ、長旅のつかれも癒される思いであった。
一夜明けて、釈迦が苦行の末、食物を摂って冥想をさらに深めたというネーランジャー河のほとりを訪れ、 ついで、そこで大悟されたという菩提樹と大塔に詣でたたのであった。
(後略)

ナットマル タチア博士とサヴィタ タチア夫人と共に
N.T.博士と超能力
その昔、「超能力はヨガではない」というタイトルで、サンデー毎日に掲載され、「求道実行」誌に転載された記事を、以下に転載します。
当時はオウム教団による無差別テロ事件が勃発し、そのためヨガが世間から誤解を受けた時代でした。
以下の記事では、著者N.T.博士が、当時日本で起きた無差別テロ事件を深く憂慮されたことが伺えます。
「人間は決して自分だけの存在ではありえない。周りのあらゆるものに影響し、されるものだ。
そのような自分をより広く深く見る練習が冥想である。
人間の生活は偏りをつくりがちだ。金儲けしか見えなくなったり、運動不足になったりする。そんな心と体の汚れをなくし、真実としてありのままに見るための心作り、その土台となる体作りをするのがヨガである。
偏りから脱却し、人間本来が持っているすべての能力を発揮できるようにするのがヨガであり、超能力という、奇をてらうものとは全く関係がない。真実に立脚した考え方、行いをするのが本当の意味での超能力だ。
古代インドのヨガの目的は、人間性とは何かを知り、心の中の不純なもの、怒りや、貪欲さや、利己心に気づき、訓練によって、純な心、清らかな心になり、だれでも心の中にある小さな悟りを開花させることにある。
透視、読心などの超能力を標榜するのは、ヨガではなくタントラ(語源は‘あやつる‘)である。これには精神性は無く、低いレベルの神とのかかわりで、誰にでもできるようになる。ヨガではない。
特殊能力にとらわれてしまうとヨガにならなくなる。それは自分が特別だという利己的な心を生み出してしまうからだ。それはむしろ‘悟り‘の逆であり、妨げとなる。インドでもそんな特殊能力を売り物にする人がいて、教育のない人人には信じられているが、宗教界の地位は非常に低い。」
(後略)
以上の記事の著者、N.Tatia博士は、著名な古代インド哲学教授で、インド ナーランダ大学学長、インド ラドヌーン研究所、1990年からは米国ハーバード大学客員教授を歴任、ヨガ哲学を講じられた。
博士は、1982年にインドで開催された国際会議において沖ヨガの沖正弘先生との運命的出会いがあり、その縁により翌年の1983年来日され下田のセミナーで、初めて私たちの前に登壇講演されました。(写真)
博士は、沖正弘先生の沖ヨガを、これまでにない積極的ヨガであるとして非常に高く評価され、インドを独立に導いたマハトマ ガンジーのヨガと並び賞されたのです。
1885年、沖先生がイタリアにて入定されると、自ら希望してたびたび来日され、各地を講演しながら沖ヨガ会員に対し、感動的なメッセージを残されました。また、博士は実践者でもあられ、冥想の指導にも取り組まれたのでした。
筆者は1983年、下田で博士の講義を拝聴して以来、約10年間の長きに渡り折に触れ親しみのあるお人柄に接しさせていただくことが出来ました。博士のお声がいまも筆者の耳に残っています。。
1990年には下田沖ヨガ研修所にてお目にかかる機会があり、夫人とともに、暖かく迎えて下さったことを昨日のごとく思い出します。
博士は晩年、私たち沖ヨガ会員に向かって、「日本にはたくさんの沖ヨガ教室がありますが、その人たちが協力して、沖先生が示された生き方、世界というものを、実現するよう努力しなければなりません。皆さんの力をぜひ沖先生の教えを広めることに捧げてください。」と訴え続けられました。
博士はご高齢にもかかわらず、常にかくしゃくとしておられ自らを沖ヨガの一学徒として、自らの晩年を捧げられたのでした。
博士は1999年2月、インド カルカッタにて、サヴィタ夫人に看取られ大往生を遂げられました。
ご功績に対し感謝申し上げ、ご厚誼に厚く御礼申し上げますとともにご冥福をお祈りいたします。
合掌

下田にて 中央タチア博士夫妻 沖ヨガ修道場案内パンフレット(当時)より
当時はオウム教団による無差別テロ事件が勃発し、そのためヨガが世間から誤解を受けた時代でした。
以下の記事では、著者N.T.博士が、当時日本で起きた無差別テロ事件を深く憂慮されたことが伺えます。
「人間は決して自分だけの存在ではありえない。周りのあらゆるものに影響し、されるものだ。
そのような自分をより広く深く見る練習が冥想である。
人間の生活は偏りをつくりがちだ。金儲けしか見えなくなったり、運動不足になったりする。そんな心と体の汚れをなくし、真実としてありのままに見るための心作り、その土台となる体作りをするのがヨガである。
偏りから脱却し、人間本来が持っているすべての能力を発揮できるようにするのがヨガであり、超能力という、奇をてらうものとは全く関係がない。真実に立脚した考え方、行いをするのが本当の意味での超能力だ。
古代インドのヨガの目的は、人間性とは何かを知り、心の中の不純なもの、怒りや、貪欲さや、利己心に気づき、訓練によって、純な心、清らかな心になり、だれでも心の中にある小さな悟りを開花させることにある。
透視、読心などの超能力を標榜するのは、ヨガではなくタントラ(語源は‘あやつる‘)である。これには精神性は無く、低いレベルの神とのかかわりで、誰にでもできるようになる。ヨガではない。
特殊能力にとらわれてしまうとヨガにならなくなる。それは自分が特別だという利己的な心を生み出してしまうからだ。それはむしろ‘悟り‘の逆であり、妨げとなる。インドでもそんな特殊能力を売り物にする人がいて、教育のない人人には信じられているが、宗教界の地位は非常に低い。」
(後略)
以上の記事の著者、N.Tatia博士は、著名な古代インド哲学教授で、インド ナーランダ大学学長、インド ラドヌーン研究所、1990年からは米国ハーバード大学客員教授を歴任、ヨガ哲学を講じられた。
博士は、1982年にインドで開催された国際会議において沖ヨガの沖正弘先生との運命的出会いがあり、その縁により翌年の1983年来日され下田のセミナーで、初めて私たちの前に登壇講演されました。(写真)
博士は、沖正弘先生の沖ヨガを、これまでにない積極的ヨガであるとして非常に高く評価され、インドを独立に導いたマハトマ ガンジーのヨガと並び賞されたのです。
1885年、沖先生がイタリアにて入定されると、自ら希望してたびたび来日され、各地を講演しながら沖ヨガ会員に対し、感動的なメッセージを残されました。また、博士は実践者でもあられ、冥想の指導にも取り組まれたのでした。
筆者は1983年、下田で博士の講義を拝聴して以来、約10年間の長きに渡り折に触れ親しみのあるお人柄に接しさせていただくことが出来ました。博士のお声がいまも筆者の耳に残っています。。
1990年には下田沖ヨガ研修所にてお目にかかる機会があり、夫人とともに、暖かく迎えて下さったことを昨日のごとく思い出します。
博士は晩年、私たち沖ヨガ会員に向かって、「日本にはたくさんの沖ヨガ教室がありますが、その人たちが協力して、沖先生が示された生き方、世界というものを、実現するよう努力しなければなりません。皆さんの力をぜひ沖先生の教えを広めることに捧げてください。」と訴え続けられました。
博士はご高齢にもかかわらず、常にかくしゃくとしておられ自らを沖ヨガの一学徒として、自らの晩年を捧げられたのでした。
博士は1999年2月、インド カルカッタにて、サヴィタ夫人に看取られ大往生を遂げられました。
ご功績に対し感謝申し上げ、ご厚誼に厚く御礼申し上げますとともにご冥福をお祈りいたします。
合掌

下田にて 中央タチア博士夫妻 沖ヨガ修道場案内パンフレット(当時)より
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