ベルリンの壁崩壊20周年

筆者撮影1969/8/4
1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊し、東西の冷戦が終結した。
アメリカとソ連が対立した東西冷戦の時代、ドイツは、東西に分断され、人々は自由な往来が制限された。西ベルリン市は、東ドイツに浮かぶ陸の孤島であった。西ベルリン市を囲む壁は全長160キロに及んだ。
西ベルリンには壁越しに東を望めるよう、物見やぐらが存在した。壁の高さは、3.6m。
写真は、壁崩壊の20年前の1969年8月4日に,その高台から、筆者が撮影したものである。
中央の人影は、東ドイツ国境警備兵である。東ベルリン市民は、壁に近づくことすら許されなかった。
あれから今年で40年経過した。
引率案内の西ドイツ人Presuhn氏は、高台から東ベルリンを遠望しつつ、次のように語ったことを今でも筆者は覚えている。
「ドイツは、力で分断されたが、われわれは力によって、それを取り戻そうとは思わない。」と。
氏の言葉のとおり、その20年後の11月9日、武力によらないで、東ドイツ国民の「自由への希求」によって、壁は破られた。
そしてその1年後、1970年10月3日、東西の統一は、実現した。東ドイツが西ドイツに合併吸収される形で。
氏のその時の感激はいかばかりであったろうかと、あらためて、おもわずにいられない。
なお付け加えるならば、Purusuhn氏は、東西ドイツ統一をその目で見て、2002年5月15日に他界された。享年76歳という。
来る11月9日は、東西冷戦の象徴であった、ベルリンの壁崩壊20周年である。
それに際し、筆者昔日のささやかな体験を綴った。
マンションの名前
「このマンションをなんと命名しましたか。」
建物竣工当時、知人を自宅から新大阪駅まで送迎した際、寄り道をして当マンションにご案内したことがあった。
建物を見学しながら、俳人で大学教授のMY氏からそう尋ねられた。
筆者はそのとき次のように回答した。
「ラ・ヴィ21」と名付けました。ラ・ヴィは生命の意味のフランス語であります。その心は、未来に羽ばたく若者がその生命力を豊かに育む場であってほしい、という願いです。」
それを聞いて知人は、にっこりされた。
筆者がMY氏を知ったのは、氏晩年のことで、すでに現役(N教育大)を退かれた頃であった。
プライベートで、依頼事や相談事をお願いし、たいへん貴重なご助言を頂きました。
いまあらためてこの場で、氏のご冥福をお祈り申し上げるとともに、ご厚誼を深謝申し上げます。
その節はほんとうにありがとうございます。
建物竣工当時、知人を自宅から新大阪駅まで送迎した際、寄り道をして当マンションにご案内したことがあった。
建物を見学しながら、俳人で大学教授のMY氏からそう尋ねられた。
筆者はそのとき次のように回答した。
「ラ・ヴィ21」と名付けました。ラ・ヴィは生命の意味のフランス語であります。その心は、未来に羽ばたく若者がその生命力を豊かに育む場であってほしい、という願いです。」
それを聞いて知人は、にっこりされた。
筆者がMY氏を知ったのは、氏晩年のことで、すでに現役(N教育大)を退かれた頃であった。
プライベートで、依頼事や相談事をお願いし、たいへん貴重なご助言を頂きました。
いまあらためてこの場で、氏のご冥福をお祈り申し上げるとともに、ご厚誼を深謝申し上げます。
その節はほんとうにありがとうございます。
老人施設デイサービス

弊社管理建物の紹介
この建物は木造2階建で、住宅として昭和18年頃に建てられた。
すでに還暦を過ぎているが、まだまだ現役で活躍している。
いまは、老人施設デイサービスとして地域のお年寄りの憩いの場となっているのである。
古びているが、それがかえってお年寄りには好評なのだという。
「室内に入るとホットする。」
といい、この小さな住宅に常に25名ほどのお年寄りたちが集う。
オープンしてから今年で10年目に入った。
「この10年間は、国の介護保険事業の施策の変転に伴い補助金は削られるいっぽうで、大阪府から常にギリギリのやりくりを強いられ台所は苦しい。」
と施設を運営する「デイサービスあさひ」代表の杉村さんは述べておられる。
それでも続いているのは、杉村さんたちの、お年寄りのためにがんばろうという熱意であろう。
いつお会いしても、杉村さんは、明るく前向きの姿勢を崩さない。
でも最近は、
「これまで人様のためつくしてきたが、そろそろ自らのことも考える時期かもしれない。」
と行政の姿勢に振り回され続けた経緯を振り返って、そう述懐されている。
このように老人支援事業は、民間人の負担におおきく依存しているというのが現状なのだ。
以上のとおり、この古びた木造住宅は、50年余りを居宅として使用され、その後の10年を地域の住民の憩いの場としていまもなお使用され続けてている。
あのバブル景気(地上げの横行という人為的災害)にも耐え、あの大震災(自然災害)に耐え、よくぞここまで生き延びたものである。
これからの時代は、古きものに敬意を払い手を加えながら丁寧に使用していくことが求められるのだろう。
2002年2月、豊中市教育委員会は、市内に残る文化的価値の高い建物を調査した。
この建物はそのとき、郊外型住宅として「歴史的建造物調査報告書」に登録されたことを付記する。





